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「間(ま)」は、なぜ時間と空間の両方を表すのか?――やまとことばから考える日本人の時空観

更新日:8月18日


アマ——丸く広がる宇宙
アマ——丸く広がる宇宙

「間(ま)」という言葉を、私たちは日常のさまざまな場面で使っています。

たとえば、

「間取り」といえば、空間のこと。

「間合い」といえば、人や物との距離。

ところが、

「束の間」といえば、短い時間を意味します。


同じ「ま」という一音が、空間にも、時間にも使われている。

普段は何気なく使っていますが、よく考えてみると不思議なことです。

なぜ日本語では、時間と空間という異なるものを、同じ「ま」という言葉で表してきたのでしょうか。


今回は、やまとことばの「ま」を入口に、日本語の中にある「時間と空間」の捉え方について考えてみたいと思います。



「ま」は、私たちの身近なところにある


「ま」を含む言葉を探してみると、実にたくさんあります。


空間に関係するものなら、

  • 間取り

  • 居間

  • 床の間

  • 茶の間


時間に関係するものなら、

  • 束の間

  • 間もなく

  • 間に合う

  • 間を置く


さらに、人と人との関係にも「ま」は現れます。

  • 仲間

  • 間合い

  • 間が悪い

  • 間を取る


こうして並べてみると、「ま」は単純な「何もない空間」を指しているわけではなさそうです。

人と人の「あいだ」。

物と物の「あいだ」。

出来事と出来事の「あいだ」。

そして、その「あいだ」に生まれる距離や時間。

私たちは、目には見えないさまざまな関係を「ま」という言葉で捉えてきました。



やまとことば姓名鑑定で読む「ま」


私が学び、やまとことば姓名鑑定で用いている音義では、「ま」という音を、

「真理」「時間・空間」

という意味を持つ音として読み解きます。


「まこと(真・誠)」の「ま」。

「まさに(正に)」の「ま」。

そして、「間」の「ま」。

さらに「まる(丸・円)」にもつながります。

円は、始まりと終わりを一つにつなぎ、欠けるところなく全体を包む形です。

そのため「ま」には、単に時間や空間というだけではなく、ものごとの全体や、その奥にある本質を捉えようとする響きを見ています。


ただし、ここで一つ区別しておきたいことがあります。

これは現代言語学によって「ま」という音そのものに「真理」という意味があると実証されている、という話ではありません。


やまとことばの音義という、一つの伝統的・思想的な読み解き方です。

言語学的な語源研究と、音義による解釈は分けて考える必要があります。

そのうえで日本語を眺めてみると、「ま」という一音の周囲に、興味深い言葉の世界が広がっていることに気づきます。



「ま」は、何もないところではない


私が特に面白いと思うのは、日本語の「間」が、単なる空白ではないことです。

たとえば会話で、

「少し間を置く」。

音楽や語りで、

「間を取る」。

武道では、

「間合いをはかる」。

どれも「何もない」わけではありません。


むしろ、その「間」によって、次の言葉が生きたり、音が響いたり、相手との関係が変わったりします。

何も存在しない空白というより、次の出来事が生まれる可能性を含んだ「あいだ」と考えた方が近いのかもしれません。


だから「間がいい」「間が悪い」という表現まであります。

同じ一秒の沈黙であっても、それが置かれる場所によって意味がまったく違う。

これは、「ま」が時計で測れる時間や、物差しで測れる距離だけではないことを示しています。



「アマ」まで広げて考えてみる


ここでもう一つ、私が大切にしているやまとことばがあります。

「アマ」です。

古い日本語では、「あま」は「天」と書かれ、天上の世界や空などを表す言葉として現れます。


『古事記』にも、

「高天原(タカアマハラ)」

という言葉があります。

やまとことばの音義では、「あ」は開く・広がる方向を持つ音として読みます。


そこに「ま」が重なる。

すると私は「アマ」という響きに、どこまでも開き広がっていく時空というイメージを感じます。


「ま」を単独で見るだけではなく、「あ」と結びついた「アマ」まで視野を広げると、「ま」が持つ時間・空間という世界が、さらに大きく見えてきます。

もちろん、これも「ア+マ=宇宙」という語源が学術的に証明されているという意味ではありません。


古語として確認できる「天(アマ)」と、私が学んできた音義による読み解きを重ねて考えたものです。

史料から確認できることと、音義から読み解くことを分けながら考える。

これは、やまとことばを現代に伝えていくうえで、とても大切なことだと思っています。



時間と空間を分ける現代、重ねる日本語


現代の私たちは、時間と空間を別々のものとして考えることに慣れています。

「何時ですか」

「どこですか」

という二つの問いは、まったく別の質問です。


けれど、日常を実際に生きてみると、時間と空間はそれほど簡単には切り離せません。

春の夕暮れ。

夏祭りの夜。

誰もいなくなった教室。

大切な人と過ごした場所。


そこには、場所だけでも時間だけでも説明できないものがあります。

「いつ」と「どこ」が重なって、一つの経験になる。


日本語の「ま」が時間にも空間にも使われてきたことを考えるとき、私はそこに、日本語を話してきた人々の世界の捉え方を想像したくなります。


ただし、

「古代日本人は時間と空間を一体として認識していた」

とまで断定するには、より慎重な検証が必要です。


言葉のあり方から、その可能性について考えてみる。

そのくらいの距離感が適切だと思います。



「今、ここ」という感覚


時間と空間について考えていると、最後には「今」という一点にたどり着きます。

過去は、すでにありません。

未来も、まだありません。


私たちが実際に生きられるのは、いつも「今」であり、その「今」は必ず何らかの「ここ」にあります。


時間と空間が交わるところに、私たちの経験がある。

そう考えると、「間」という言葉が時間にも空間にも開かれていることが、少し違って見えてきます。


日本思想には「中今(なかいま)」という言葉もあります。

この言葉については成立や用法を別途丁寧に検討する必要がありますが、私自身は、「今をどう生きるのか」という問いにつながる言葉として関心を持っています。



「思考は現実化する」と同じなのか


ここで、以前の私はこの「ま」の考え方と、現代の自己啓発でよく知られる、


「思考は現実化する」


という考え方を強く結びつけて捉えていました。


自分が思い描いた未来が、現在の行動を変え、その積み重ねによって現実が変わっていく。

そこに「今」という時間と、「ここ」という場所の重なりを見ることはできます。

そして、その発想と「ま」を重ねて考えることには、今でも面白さを感じています。


しかし、現在は、

「思考は現実化するという思想は、日本古来の時空観そのものである」

とは考えていませんし、それが日本人に古来から伝わる「真理」であると証明されているわけでもありません。


異なる時代、異なる思想的背景から生まれたものの間に、私自身が一つの共通性を感じたということです。



「ま」という一音から、世界を見る


「間取り」。

「間合い」。

「束の間」。

「仲間」。

そして「アマ」。

普段何気なく使っている日本語を、一音までひらいて見つめてみる。


すると、知っているはずの言葉の向こう側に、これまで気づかなかった世界が現れることがあります。


やまとことばを学ぶ面白さは、昔の言葉をたくさん覚えることだけではありません。

一つの言葉を入口に、自分たちが世界をどう見ているのかを、もう一度問い直してみること。


「ま」は、時間なのか。

空間なのか。

その「あいだ」なのか。

あるいは、そのすべてを包むものなのか。

答えを急がず、一つの音から世界を眺めてみる。

そんなところにも、やまとことばの面白さがあるように思います。



関連記事


「ま」と同じマ行にありながら、異なる本質を表す「み」についても読み解いています。



やまとことば姓名鑑定では

名前の中に「ま」があるから、必ずこのような性格になる、という読み方はしません。

一音の意味だけでなく、名前全体の音の連なりや姓との重なり、そして何より、その方自身が歩んできた経験と照らし合わせながら読み解いていきます。

名前を「答え」にするのではなく、自分自身を見つめるための入口にする。

それが、私が大切にしている姓名鑑定のあり方です。

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