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折口信夫の言霊観と〈やまとことば姓名鑑定〉の理論的接続を試みる


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 折口信夫は『国語学の発生』において、言語を「思想を表す器」ではなく「思想をつなぎ、導く装置」であると定義した。すなわち、言葉は思考の外にある伝達手段ではなく、思考そのものを構成する媒介である。人は言葉を使って考えるのではなく、言葉の中でしか考えることができない。ここに、折口の言語観=思考装置観の核心がある。


 この認識は、古代日本における「言霊」信仰の理解を一変させる。折口によれば、言霊とは単なる“美しい言葉”の修辞的力ではなく、言葉を発する行為そのものが現実を生成する力であった。言葉と出来事、発声と生成が分離していなかった時代において、発話とは祈りであり、命令であり、生成の契機であった。折口はこの行為的・創造的言葉の感覚を“古代的言霊観”と呼び、後代の「良い言葉を言えば良いことが起こる」という表層的信仰を誤読として退けた。


 この折口の言語論は、「やまとことば姓名鑑定」の基底思想と深く響き合う。鑑定において扱うのは、音という発声そのものが持つ力である。人の名前を構成する音は、単なる記号の集合ではなく、その人の生命を呼び覚ます“呼称の儀礼”である。名を呼ぶとは、存在を呼び出すことであり、名乗るとは、自らを現前化する行為である。折口が説く「言葉=行為」という構造は、まさにこの名告(なの)りの根源的意味を支えている。

 また、折口が指摘した「古代人は言葉によって思考を形成した」という観点は、現代の心理言語学が示す「言語=思考の枠組み」という考えにも通じる。つまり、ある人がどの音を自らの名として響かせているかは、その人が世界をどのように感じ、どのように自己を認識しているかを映し出す鏡であるとも言える。音義(おんぎ)は、単なる語源解釈ではなく、思考と感情の型(パターン)を示す装置として働く。


 折口が示した言語の行為性――「言葉が現実を動かす」――を現代において再び実践的に蘇らせる営みこそ、やまとことば姓名鑑定の意義である。名を読むことは、単なる性格分析や象徴解釈ではなく、言葉を通じてその人の生命の律動を聴き取り、言霊の回路を整える行為である。それは折口が見抜いた“言葉と思考の一体性”を、人間存在の調和へと拡張する試みでもある。

 
 
 

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