「まこと」とは何か――ことばと行いを重ねて生きる、大和言葉の人生観

「誠実な人ですね」
「誠を尽くす」
「まことの心」
私たちは今でも、「まこと」という言葉を知っていますし、使っています。
でも、
「まこととは何ですか?」
と改めて聞かれたら、どう答えるでしょう。
嘘をつかないこと。正直であること。人に誠実であること。
どれも「まこと」につながるものだと思います。
私がやまとことばを学ぶ中で出会った「まこと」は、そこからさらに、
自分が何を語り、そのことをどう生きるのか。
という、生き方そのものへつながる言葉でした。
「言ったことが、成る」
私は林英臣先生から、やまとことばの一音一音の意味や、『古事記』の神々の名を音から読む方法を学んできました。
その中で教わった人生観の一つが、
「まこと」
です。
先生から教わった捉え方では、「誠」を、
「言ったことが、成る」
と見ます。
自分が口にしたことを、実際に行う。
約束したことを守る。
「こうします」と言ったことと、実際にやっていることが重なっている。
そこに「まこと」がある、と考えます。
これは、「誠」という漢字の歴史的な字源を説明するものではありません。
ここでは、私が林先生から学んだ、「まこと」という生き方を考えるための一つの捉え方として紹介しています。
この考え方を知ったとき、私にとって「まこと」は、昔の美しい言葉ではなくなりました。
自分自身の毎日の生き方に関わる言葉になったのです。
ことばは、口から出たところで終わらない
私たちは毎日、たくさんのことばを使っています。
「明日やります」
「大切にします」
「応援しています」
「また会いましょう」
「任せてください」
ことばそのものは、一瞬で口から消えていきます。
でも、人との間では、そのことばは消えません。
約束になり、期待になり、信頼になります。
そして、その後の行動によって、
「あの人は言ったことを守る人だ」
ともなれば、
「言っていることと、やっていることが違う」
ともなります。
そう考えると、ことばは単なる音ではありません。
ことばは、その人の行いにつながり、その人の生き方を形づくっていくものでもあります。
「真言」と「真事」から、「まこと」を考える
「まこと」を学ぶ中で、私は「真言」「真事」という言葉についても考えるようになりました。
歴史的な語源を単純に一つへ決めることはできません。
そのうえで、真の言、真の事、という二つを重ねて見てみると、とても興味深いものがあります。
何を言うのか。そして、何をするのか。
ことばと、こと。
語ったことと、実際に起こす行いとが離れていない。
「まこと」という言葉は、
何を語るかだけではなく、それを実際の人生の中でどう生きるのか
を問いかける言葉として、私には感じられます。

「まこと」は、一人だけでは成り立たない
「まこと」は、自分一人だけの心の持ちようではありません。
そこには、人との関係があります。
約束にも、信頼にも、相手がいます。
「あなたならできる」
「あなたに任せます」
そう言って誰かに信じてもらったとき、その信頼に応えたいと思った経験はないでしょうか。
反対に、自分が誰かを信じることで、その人が力を発揮していくこともあります。
人を信じる。
信じてもらったことに応えようとする。
自分のことばを大切にする。
そうした一つひとつの積み重ねが、人と人との関係をつくっていきます。
そう考えると、「まこと」とは、
ことばと行いの一致であると同時に、人を信じ、人から信じられて生きること
でもあるのだと思います。
自分自身に対しても、「まこと」であること
では、人との約束を守っていれば、それだけでよいのでしょうか。
私は、「まこと」は自分自身との関係にもつながると思っています。
私たちは、
「こう生きたい」
「これを大切にしたい」
と思いながら、いつの間にか、それとは違うところへ進んでしまうことがあります。
周囲からどう見られるか。
何を求められているか。
どんな役割を果たさなければならないか。
そうしたことに応え続ける中で、
「自分は、本当は何を大切にしたかったのだろう」
と分からなくなることもあります。
だからこそ、
自分は、何を大切にしたいのか。
と、ときどき自分自身に問い直す。
それもまた、「まこと」を生きることにつながっているのではないでしょうか。
ここから、「すなお」という、もう一つの大和言葉の人生観にもつながっていきます。
「まこと」を生きるとは、完璧になることではない
「言ったことが成る」と聞くと、一度口にしたことは、必ず守らなければならないとか、
考えを変えてはいけないとか、そんな厳しい話にも聞こえるかもしれません。
人は迷います。
考えも変わります。
約束を守れないこともあります。
言っていることと、実際にやっていることがずれてしまうこともあります。
大切なのは、そのずれに気づいたときではないかと思います。
「自分は、本当はどうしたいのだろう」
と、もう一度問い直す。
そして、ことばと行いのあいだに生まれた距離を、少しずつ近づけていく。
私にとって「まこと」は、完璧な状態を意味するのではありません。
自分が語ることと、自分が生きていることを、何度でも重ね直していく。
そんな日々の営みに近いものです。
いまの自分に、「まこと」を問いかけてみる
こう考えると、「まこと」は古い日本語の話だけではなくなります。
仕事で「大切にしたい」と言っていることを、本当に大切にしているだろうか。
家族を大切にすると言いながら、そのための時間を使っているだろうか。
人に求めていることを、自分自身は行っているだろうか。
そして何より、
自分は、何を大切にすると語っているだろう。
そのことを、自分は実際にどう生きているだろう。
これは、私自身にも向けている問いです。
私は「まこと」について学んだからといって、そのとおりに生きられているとは思っていません。
だからこそ、この言葉を知識として覚えるのではなく、日々の中で何度も自分に問い直していきたいと思っています。

名前をほどくことと、「まこと」を生きること
私は現在、やまとことばの一音一音から名前をほどき、そこから見えてくるものを、その方が歩んできた人生と重ねながら、一緒に見つめる時間をつくっています。
そこで大切にしているのも、名前から「答え」を出すことではありません。
名前の音を手がかりに、
自分は何を大切にしてきたのか。
どんな力を発揮してきたのか。
どんなふうに人と関わってきたのか。
これまでの人生と重ねながら、一つずつ自分自身の言葉にしていく。
そして、その先に、
「では、これから自分は何を大切に生きていきたいのか」
という問いがあります。
名前の意味を知るだけなら、そこで終わります。
そこから見えてきたものを、自分自身のことばにし、これからの生き方へつなげていく。
私が、
「名をほどき、その名を生きる。」
という言葉に込めているものも、ここにあります。
「その名を生きる」とは、名前に自分を合わせることではありません。
名前を手がかりに自分を知り、
自分が大切にすると決めたものを、自分自身の生き方の中で表していくこと。
そう考えると、
「その名を生きる」ことと、「まことを生きる」ことは、どこか深いところでつながっている。
そんなふうに考えています。
ことばを知ることから、ことばを生きることへ
やまとことばを学ぶというと、
古い日本語の意味を知ることや、日本文化について学ぶことを思い浮かべるかもしれません。
そうした学びを続ける中で、
私はことばを知ることと、そのことばを生きることは違うと思うようになりました。
「まこと」の意味を知る。
それは入り口です。
自分は何を語るのか。
人とどう関わるのか。
そして、そのことを実際にどう生きるのか。
ことばを、自分の日々の中へ戻してみる。
ことばと行いを重ねて生きる。
「まこと」という言葉は、今を生きる私たちにも、そんな問いを静かに投げかけているように思います。
あなたにとっての「まこと」は?
今、自分が「大切にしたい」と口にしていることは何でしょう。
そのことは、今の暮らしや行いの中に、どのくらい表れているでしょう。
ことばと行いを一つだけ近づけるとしたら、今日、何ができるでしょう。

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