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響きを、未来へ。——やまとことばまつり2026

やまとことばまつり2026
やまとことばまつり2026

「口伝」と聞くと、私はつい、一子相伝のようなものを思い浮かべてしまいます。


大切な教えや秘伝を、外に漏らさないように、人から人へ伝えていく。

そんなイメージです。


ところが、「やまとことばまつり2026」の対談において、林英臣先生は全く違う見方を示してくださいました。


口伝には、「音を残す」「響きを残す」という意味もあったのではないか。


このお話を聞いたとき、私は、はっとしました。


文字なら「意味」は残せる。

だけど、どのような音で、どのような響きで語られていたのかは、文字だけでは残せない。


だから、人の声から人の声へ伝えていく。


そうだとすれば、私たちが今、大和言葉を声に出し、古事記を読み、次の人へ伝えようとしていることは、はるか昔から続いてきた「響きを伝えていく営み」の延長にあるのかもしれない。 そんな新たな気づきを得たのでした。

「日本人の心がよみがえる ことたまの力」


前半は、漫画家・神話講師として活動されている つだゆみさん による講演でした。


つださんが神話を伝える活動の根底には、

「私たち日本人は、自分たちが何者なのかを語れなくなっているのではないか」

という問題意識があります。


日本という国はどのような国なのか。

私たちの祖先は、自然や人間、見えないものをどのように捉えてきたのか。

その精神的な根っこに触れるために、神話をもう一度、自分たちのものとして取り戻したい。


つださんは、その入口として古事記を伝え続けています。


そしてこのつださんの思いを語る中心にあったのが、「ことたま」でした。


津田さんは、木や石、山や自然のあらゆるものに神を感じてきた日本人の感性と重ねながら、言葉の一音一音にも命や神を感じる感覚について語られました。


「まず、感じること」


何でも説明できること、理屈が通ること、情報や知識を持っていることが重視されてきた時代。


しかも今は、AIに尋ねれば膨大な情報を瞬時に得ることができます。

だからこそ、これから人間にますます問われるのは、

「私は、これをどう感じるのか」

という感性なのではないか。


津田さんのお話は、「感じる」ということから、自然や神、そして宇宙とのつながりへと広がっていきました。

そうした流れの中で、林英臣先生との対談が始まりました。



古事記の神様の名前は「暗号」なのか


このやまとことばまつり2026の対談は、対談の醍醐味(あらかじめ用意された答えを聞くことではない)を感じさせてくれるものでした。


一人の問いによって、もう一人の中から新しい言葉が引き出されていく。

そんな場面が何度もあったように思います。


その一つが、つださんから発せられた

「なぜ古事記は、天地の成り立ちをそのまま説明せず、神様の名前という暗号のような形で表したのでしょうか」

という問いでした。


林先生の答えは、

当時の人にとっては、別に暗号ではなかったのではないか。


私たち現代人から見ると難解な神名も、当時の大和言葉の感覚から素直に受け取れば、その働きを表す言葉だったのではないか。


古代の人が難しく隠したのではない。

むしろ、長い時間の中で私たちの側が大和言葉の感覚を失ったために、暗号のように見えるようになった。


林先生は、そのように読み解かれました。


すると津田さんが、(ご自身が普段開催されている講座のなかでも)

「みんな『どういう意味ですか』と説明を求めるけれど、私はまず感じてください、とよく言うんです」

と応じます。


神様の名前そのものにすべてが含まれているなら、説明より先に、まずその音の響きを感じ、受け止めることが大切なのは言うまでもありません。


前半の講演で津田さんが語っていた「感じること」と、林先生の大和言葉の読み解きが、ここで重なったように感じました。 ------------------------ 当サイトでは、実際に古事記冒頭の「天之御中主神」を例に、一音一音の音義から神名をどのように読み解くのかをご紹介しています。 古事記冒頭を音義から読み解く

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文字ではなく、「響き」を残す


そして対談は、今回私が最も心を動かされた「口伝(暗誦)」の話へと進みます。


古事記の序文には、天武天皇の命を受けた稗田阿礼が、それまで伝えられてきた内容を誦習したことが記されています。


なぜ、暗誦する必要があったのでしょうか。


林先生が語られた内容は次のとおり。


文字にすれば、内容は残すことができる。

しかし、文字だけでは、どのように発音されていたのかが分からなくなってしまうことがある。

それに対して、高い能力を持った人が正確に暗誦し、声から声へ伝えていけば、「音」を残すことができる。


林先生は、古来の口伝について、そのような見方を示されました。


「古代の口伝は響きを保存するために行われた」ということは、歴史的事実というわけではありません。


ですが、この見方には強く心を動かされました。

なぜなら、大和言葉を考えるとき、これはとても大切な問いだからです。


もし伝えたいものが「意味」だけなら、文字にしておけばよい。

けれど、伝えたいものが、

音であり、発音であり、リズムであり、間であり、身体に響く何かであったなら。

文字だけでは、十分ではありません。


人が声を出し、それを別の人が聞き、また声にして次の人へ渡す必要がある。

そう考えたとき、

音 → 人の身体 → 口伝 → 文字

という、私たちが普段考えているのとは少し違った順序が見えてきます。


現代の私たちは、ともすると「文字が本体で、音読は書かれた文字を音に戻す行為」と考えがちです。


しかし、もしかすると古い時代には、

音や響きが先にあり、文字はそれを留めるための一つの器だった。

そんな見方もできるのかもしれません。


だとすれば、古事記を「読む」ということの意味も変わります。

内容を理解するために黙読するだけではない。

声に出して、自分の身体を通して、もう一度その言葉を響かせてみる。

そのとき古事記は、1300年前に書かれた日本最古の歴史書というだけではなく、今ここに再びその響きと共に甦ることになります。



古事記は、過去へ戻るための本ではない


対談の後半、「なぜ今、古事記を読むのか」という問いに対して、林先生が挙げられた言葉が、「原点回帰」でした。


時代が大きく変わるときには、原点回帰が起こる。

新しいものを生み出そうとするときほど、「自分たちはどこから来たのか」という根っこを確かめる必要がある。


そして林先生は、

古いものを古く読むのではなく、古事記という原点を現代と将来にどう生かすかが大切だ

と語られました。


原点回帰とは、昔へ戻ることではない。

未来へ進むために、一度根っこへ戻ること。


これは、津田さんが講演で語られた「日本人の精神性の根っこを知る」というお話とも重なっていました。


古事記を学ぶということは、どういうことなのでしょう。


「私たちは何を大切にしてきたのか」

「人と人、人と自然を、どのような関係として捉えてきたのか」


そこに立ち返りながら、これからの生き方を考える。

古事記には、そのための手がかりがあるのではないか。

そんな話へと対談は広がっていきました。



言葉もまた、宇宙の「響き」の一つ


そして最後に、対談は思いがけないほど深いところへたどり着きます。

「言霊を使うことで、宇宙とどのようにつながっていくのでしょうか」

というつださんの問いに対して、林先生はまず、


「言葉」というものの概念を変えなければならない


と話されました。


言葉を、人間が話す language だけだと考えるから分からなくなる。

宇宙は止まることなく活動している。

活動しているということは、宇宙そのものが響いている。

そして人間の言葉も、その大きな響きの中にある。

動物も、生命も、それぞれに何らかの方法で伝え合い、響き合っている。

あらゆるものが響いている。

その中に、私たちが発する言葉もある。


林先生は、そのように語られました。

さらに、宇宙というと、私たちはつい、遥か彼方にあるものを想像します。

そして、

「どうすれば宇宙とつながることができるのだろう」

と考えてしまう。


けれど、そもそも私たちは宇宙の外にいるのでしょうか。


「自分が宇宙なんですよ」


私も宇宙。あなたも宇宙。

遠くにある宇宙と何か特別な方法でつながるのではなく、私たちは初めからその一部としてここにいる。


だからこそ、響き合う。

そして林先生は、「天と人は合一である」という天人合一へと話を結ばれました。

すると津田さんも、

自分の中に神話もあるし、高天原もある

と受け止めておられました。


言葉も宇宙の響きの一つ。

身の回りのあらゆるものが響き合い、もともと一つの大きな世界の中にある。

前半の「まず感じる」という津田さんの特別講演から始ま理、最後にここまでたどり着きました。


つだゆみさんだったからこそ、ここまで深まった


今回の対談は、

つだゆみさんが対談のお相手だったからこそ、引き出されたお話がたくさんありました。


つださんは、古事記・日本書紀を長く読み込み、それを漫画という形にして、多くの人に伝えてこられた方です。


だから、

古事記冒頭の神々と、物語の中で働く神々をどのようにつなげて考えるのか。

高天原は、古事記冒頭と物語の中で同じものなのか。

なぜ日本では、文字以上に口伝が重視されてきたのか。

古事記編纂の背景には、どのような思いがあったのか。

表面的な知識だけでは出てこない問いが、次々と林先生に投げかけられました。


しかも、ただ教えを請うのではありません。

津田さん自身の研究や仮説を示しながら、

「先生はどう思われますか」

と問いを投げる。

林先生も、

「どんどん突っ込んでください」

と応じる。


その往復の中で、一人の講演ではなかなか言葉にならないところまで、話が掘り下げられていきました。

対談の最後には、林先生から津田さんの古事記・日本書紀への造詣の深さに対して、大きな賛辞も贈られました。

今回の対談そのものもまた、

異なる二人の響きが重なることで、一人では生まれなかった何かが生まれた時間

だったように思います。



私たちの「名前」も、呼ばれ続けてきた音である


私たちの名前もまた、文字として存在しているだけではありません。


生まれたときに授けられ、

家族から呼ばれ、

友人から呼ばれ、

仕事の場で呼ばれ、

そして自分自身でも、何度も名乗りながら生きてきた。

名前とは、一生を通して繰り返し響かせてきた音でもあります。


やまとことば姓名鑑定は、漢字の画数から吉凶を判断するのではなく、名前を構成する一音一音に目を向けます。

それは、姓名鑑定だけのために作られた音の見方ではありません。

同じ音義を手がかりとして、古事記冒頭の神々の名も読み解いていきます。

古事記を読むこと。

一人の名前を読むこと。

一見するとまったく違うように見える二つが、

「音には働きがある」

という一つの世界観によってつながっています。


今回、「響きを残すための口伝」というお話を聞いたことで、なぜ私たちは今なお「音」に立ち返るのか、その意味を自分自身も改めて考えることになりました。



響きを、未来へ手渡す


古代の人たちは、声から声へと言葉を伝えた。

やがて、その一部が文字として残された。

それを後の人々が読み、

研究し、

もう一度声にし、

また次の人へ伝えてきた。


そう考えると、2026年8月18日「やまとことばの日」に私たちが集まり、大和言葉を読み、語り、聞いたこともまた、その悠久流れの中にあるのかもしれません。


響きを受け止め、自分の中で響かせ、また次へ手渡していく。


主催者の一人としても、「やまとことばまつり」もまた、そんな場でありたいと思いました。


大和言葉は、過去の言葉ではありません。

古事記も、過去の物語ではありません。


今ここにいる私たちが声にした瞬間、言葉はもう一度、今を生きる響きになります。

そして、一人から一人へ伝わった響きが、さらにその先へと続いていく。

今回の「やまとことばまつり」を終えて、そんなことを強く感じています。

 
 
 

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