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天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)とは?――『古事記』原文と「アマ・ミナカ・ヌシ」から読み解く最初の神

天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)
天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)

『古事記』を開くと、最初に現れる神は、天照大御神でも、伊邪那岐神・伊邪那美神でもありません。


最初に記されるのは、天之御中主神です。


現在は一般に、

アメノミナカヌシノカミ

と読まれています。


この神様は、

『古事記』の一番最初に現れるにもかかわらず、その後の神話で華々しい物語を演じることはありません。


国を生むわけでもない。戦うわけでもない。誰かに命令する場面が描かれるわけでもない。


ただ、天地のはじまりに現れ、身を隠します。

なぜ、『古事記』はこの神から始まるのでしょうか。

そして、

天・御中・主

という御神名には、どのような世界観が表されているのでしょう。

これまで「読みもの」では、

「アマ」

そして、

「ミナカ」

という二つのやまとことばを見てきました。

今回はそこに「ヌシ」を重ね、いよいよ『古事記』最初の御神名を、ことばの音から読み解いてみます。

『古事記』は、天之御中主神から始まる


まずは、解釈を加える前に『古事記』そのものを見てみましょう。

冒頭には、次のように記されています。

天地初發之時、於高天原【訓高下天云阿麻。下效此。】成神名、天之御中主神。

おおよその意味は、

「天地が初めて開けたとき、高天原に成った神の名は、天之御中主神」

というものです。


続いて、

高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)

神産巣日神(カムムスヒノカミ)

が現れます。


この三柱は一般に「造化三神」と呼ばれ、その後に宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)、天之常立神(アマノトコタチノカミ)が続き、合わせて五柱を「別天神(コトアマツカミ)」といいます。


天之御中主神は、その最初に置かれた神です。


ところが、その後の物語では具体的な活動がほとんど語られません。


最初に現れながら、物語の表舞台には出てこない。

ここに、天之御中主神という神様の大きな謎があります。



「アメノ」か、「アマノ」か――原文に残された訓注


ここで、御神名の「読み」について一度立ち止まってみましょう。

現在、天之御中主神は一般に、

アメノミナカヌシノカミ

と読まれています。


ところが、先ほどの『古事記』原文には、非常に興味深い訓注があります。

訓高下天云阿麻。下效此。

「高」の下にある「天」は、

阿麻(アマ)

と訓む。


そして、

下效此――以下、これに倣う。

という注記です。


そのため「高天原」は、

タカアマハラ

と読みます。

では、そのすぐ後に現れる、

天之御中主神

の「天」はどうでしょうか。


一般的な現代の訓読では「アメノミナカヌシ」とされることが多く見られます。

一方、河戸博詞氏から林英臣氏へと受け継がれてきた音義による読みでは、この原文の

「天云阿麻。下效此。」

を重視し、

アマノミナカヌシノカミ

と読み解きます。


yamatokotoba.jpでも、一般的な呼称を紹介するときには「アメノミナカヌシ」を用いますが、一音一音の音義から御神名を読み解く場面では「アマノミナカヌシ」という読みを用います。


これは、

「一般的なアメノミナカヌシという読みは間違いである」

と主張するためではありません。


原文には何が書かれているのか。

一般にはどう読まれているのか。

そして、音義ではなぜ別の読みを重視するのか。

それぞれを分けたうえで、御神名そのものに耳を澄ませてみる。

それが、この「読みもの」で大切にしたい姿勢です。





「アマ」を読み解く――宇宙という広がり


ここからは、音義の世界へ入ります。


まず、

アマ。

古い日本語で「あま」は、「天」「空」を表すことばとして使われてきました。

一方、やまとことばの音義では「アマ」をさらに大きく、宇宙として読み解きます。


その鍵になるのが、「マ」です。


「束の間」といえば時間。

「間取り」といえば空間。

「間合い」には、距離という空間と、タイミングという時間の両方が含まれます。


このように日本語では、時間と空間の双方を「マ」という同じ一音で表しています。

そこから音義では「マ」を時空として捉え、その時空が広がる全体を「アマ=宇宙」と読みます。


これは「アマ」という語の歴史言語学的な語源が「宇宙」であるという意味ではありません。


古語として確認できる「天・空」という意味と、一音一音から世界観を読み解く音義上の「宇宙」という読みは、分けて考える必要があります。

けれど、この視点を持って『古事記』を見ると、アマノミナカヌシという御神名の世界が、一気に広がり始めます。



「ミナカ」を読み解く――真ん中より深い「中心」


次は、

ミナカ。


私たちは「中心」と聞くと、円の中央にある一点のようなものを想像します。

しかし、やまとことばの音義では、

ナカ、マナカ、ミナカ

を区別します。


「ナカ」は、表に対する内部。

そのナカの中央が「マナカ」。

そして、さらに本源的な中心が、「ミナカ」です。


一音ずつ見ると、


ミ=本質・御霊

ナ=調和

カ=疑問・幽玄


と読み解きます。


つまりミナカとは、単なる「真ん中の場所」ではありません。

そのものが、そのものとして存在するための、本源的な中心として捉えます。


さらに『大和言葉の世界観』では、「中心」を、

物全体の中枢となる位置であり、同時に、その位置を占める主体として考えます。


中心があるから全体が一つにまとまり、そこから縦横のつながりが生まれていく。

それが「ミナカ」の世界観です。




「ヌシ」とは何か――全体を一つに統べるもの


そして、今回初めて見る音が、ヌシです。


現代の日本語にも、

家主。地主。持ち主。船主。

など、「主(ぬし)」ということばが残っています。


やまとことばの音義では、「ヌシ」を、

ヌ + シ

と読み解きます。


ここから先も、一般的な歴史言語学による「ヌシ」という語の語源説明ではなく、音義による読みです。



「ヌ」――一様に、平らにする


「ヌ」は、一様・平らという意味を持つ音として読み解きます。


たとえば、塗る(ぬる)ということばがあります。

塗料を塗ると、表面全体に同じように行き渡り、凸凹がならされていきます。

「ぬめる」「ぬるぬる」といったことばにも、表面が一様につながっている感覚があります。

そこから「ヌ」に、

全体に行き渡り、一様にしていく

という働きを見ます。



「シ」――水から「統べる」へ


「シ」は、もともとに関わる音として読み解きます。

たとえば、湿る(しめる)、雫(しずく)、滴る(したたる)など。


また、占めるというように、

そこから音義では、「シ」の意味が、全体に行き渡る

さらに、締める、取り締まる

といった、全体をまとめ、統べる働きへ展開すると考えます。


そのため、「ヌシ(ヌ + シ)」は、

全体を一様にまとめ、統べる主体――

という読みへつながります。



アマ・ミナカ・ヌシを、一つに戻してみる


ここまで、

アマ

ミナカ

ヌシ

を、それぞれ見てきました。


では、もう一度一つにつないでみましょう。


アマ

音義では、時間と空間を含む宇宙


ミナカ

その存在を成り立たせる本源的な中心


ヌシ

全体を一つに統べ、まとめる主体


そして、アマ・ノ・ミナカ・ヌシ。


音義から読み解くと、天之御中主神という御神名には、

宇宙の本源的な中心にあって、その全体を統べる主体

という世界観が浮かび上がってきます。


これは単に、

「宇宙の真ん中にいる偉い神様」

という意味ではありません。


中心とは、空間上の一点ではない。

そこから全体が成立し、さまざまなものが関係し合い、一つの世界としてまとまっていく。

その根本にある中心です。


だからこそ『大和言葉の世界観』では、『古事記』が最初に天之御中主神を置いたことから、万物には中心があり、そこから森羅万象が現れていくという中心の世界観を読み取ります。




なぜ、最初の神なのに「何もしない」のか


ここで、最初の疑問へ戻ってみましょう。


天之御中主神は、なぜ『古事記』最初の神でありながら、その後の物語でほとんど何もしないのでしょうか。


史料だけから、その理由を一つに決めることはできません。

けれど、ここまで見てきた「ミナカ」という世界観から、一つの読み方が生まれます。

中心だからこそ、自らすべてを行う必要がない。

たとえば、オーケストラ。

指揮者は、ヴァイオリンも吹奏楽器も打楽器も、自分ですべて演奏するわけではありません。

けれど、その中心があるから、異なる楽器が一つの音楽としてまとまります。


私たちの身体も同じです。

心臓、肺、胃、脳、手、足。

それぞれ別の働きをしています。

けれど、ばらばらの生命ではありません。

一つの存在としてまとまっています。

そう考えると、天之御中主神は、

「何もしない神」ではなく、「あらゆる働きの根本にある中心」

として見ることもできます。


もちろん、これは『古事記』本文がそのように説明しているという意味ではありません。

やまとことばの音義から御神名を読み解いたときに見えてくる、一つの世界観です。



そして、「中心」の次に「ムスヒ」が現れる


もう一度、『古事記』冒頭の神々の順番を見てみましょう。


最初に、

天之御中主神。

そして、

高御産巣日神。

さらに、

神産巣日神。

です。


最初に「中心」がある。

そして、その次に二柱の、ムスヒの神が現れる。


「ムスヒ」は、生成、生み出す働きに関わることばとして読み解かれます。


つまり音義の世界観から見れば、


中心がある

そこから生成する働きが起こる

世界が展開していく


という流れとして、『古事記』冒頭を読むことができます。



『古事記』を、神様の物語だけで終わらせない


『古事記』というと、

天照大御神。

須佐之男命。

大国主神。

因幡の白兎。


そんな物語を思い浮かべる人が多いかもしれません。

それも『古事記』の大きな魅力に違いはありませんが、その物語のいちばん最初に書かれているのは、ほとんど物語を持たない、天之御中主神です。

その御神名を、

アマ。

ミナカ。

ヌシ。

と、一音一音にまでひらいてみる。


すると、

宇宙とは何だろう。

中心とは何だろう。

一つにまとまるとは、どういうことだろう。

という、神話のさらに奥にある問いが現れてきます。

やまとことばから『古事記』を読むということは、

「この神様は何をしたのか」

を知るだけではありません。

「なぜ、この御神名なのだろう」

と、ことばそのものへ戻ってみることでもあります。


御神名が、世界を見るための入口になる。

そこに、古事記を「音」から読む面白さがあります。



私たち自身にも「ミナカ」はあるだろうか


最後に、少しだけ現代を生きる私たちへ視点を戻してみます。

これは『古事記』本文そのものが語っていることではなく、今回の世界観から生まれる一つの問いです。


私たちは、いくつもの役割を持って生きています。

家庭にいる自分。

仕事をしている自分。

親としての自分。

友人といる自分。

一人でいる自分。

どれも、自分です。


けれど役割が増えれば増えるほど、

「では、そのすべてを一つにつないでいるものは何だろう」

という問いも生まれます。


自分にとっての「ミナカ」は何なのか。

何を中心に置けば、ばらばらに見えるものが一つにつながるのか。


『古事記』の一番最初に記された御神名を、一音ずつ読み解くことは、

遠い昔の神様を知ることだけでなく、

「中心とは何か」

という問いを、私たち自身へ返してくれます。


古いことばを知ることが、今を生きる自分を見ることにつながる。

それもまた、やまとことばを現代に学ぶ意味の一つなのかもしれません。



次は、「ムスヒ」へ


『古事記』は、天之御中主神の次に、

高御産巣日神

そして、

神産巣日神

を置きます。


二柱に共通する、

「ムスヒ」

とは何でしょうか。

「結び」とは同じなのでしょうか。

なぜ、中心の次に「生成」の神々が現れるのでしょうか。


次の記事では、

「ムスヒ」

というやまとことばを、一音一音から読み解いていきます。



関連する読みもの




典拠と、本記事の立場について


本記事における「アマ」「ミナカ」「ヌシ」の音義による読み解きは、河戸博詞氏『大和言葉国学の世界観』および、その内容をもとにした林英臣氏の「大和言葉国学の世界観」講座を主な典拠としています。


また、「アマノミナカヌシ」という読みについては、『古事記』冒頭の

「訓高下天云阿麻。下效此。」

という訓注を重視する、同音義体系の読み方を紹介しています。


一方、現在一般に用いられている「アメノミナカヌシ」という訓読や、『古事記』本文から確認できる事柄と、音義による読み解きは同一のものではありません。


古典本文から確認できること

一般的に用いられている読みや解釈

やまとことばの音義による読み解き

そこから生まれる現代的な考察

をできる限り区別しながら、日本語と『古事記』の世界を探っていきます。

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