「かぐ」とは、においを感じることだけか?―「か・ぐ」を一音ずつひらく
- 山本 幸臣

- 2 日前
- 読了時間: 15分
更新日:6 時間前

見えないものは、存在しないのでしょうか。
森を歩いていると、ふっと木の香りがする。
雨が降る前には、空気の匂いが変わる。
家の前を通っただけで、夕食の支度をしていることがわかる。
姿はまだ見えていない。
けれど、
何かが、そこにある。
私たちは、それを鼻で感じ取ります。
「かぐ」。
普段はあまり意識することのない、たった二音の言葉です。
けれど、この言葉をひらいていくと、
目には見えないものを、感じ取る
という、とても興味深い世界が見えてきます。
この記事では、まず辞書や古典から確認できる「かぐ」の意味を見ていきます。
そのうえで、歴史的な語源とは区別しながら、やまとことばの音義から「か・ぐ」を一音ずつ読み解きます。
「かぐ」とは、鼻でにおいを感じることだけではない
辞書で「嗅ぐ」を調べると、基本となるのは、
鼻でにおいを感じ取ること
です。
しかし、日本語の「かぐ」は、それだけではありません。
においから、そこにあるものを知る
私たちは、姿を見るより先に、匂いから何かの存在に気づくことがあります。
コーヒーの香りがして、
「あ、誰かが淹れている」
と気づく。
花の姿がまだ見えなくても、
「どこかで梅が咲いている」
とわかる。
料理を見なくても、
何を作っているのか想像できる。
つまり「かぐ」とは、
においを感じるだけではなく、においを手がかりに、そこにあるものを知る行為
でもあります。
「嗅ぎ出す」「嗅ぎつける」という使い方
日本語には、
気配を嗅ぎつける
秘密を嗅ぎ出す
事件の匂いを嗅ぎ取る
といった表現があります。
もちろん、秘密や事件そのものから匂いが出ているわけではありません。
まだ表面には現れていない。
はっきりとは見えていない。
それでも、小さな手がかりから、
何かがあることを察知する。
「かぐ」という言葉は、そこまで意味を広げているのです。
古典に残る「かぐ」と香り
「かぐ」という言葉を考えるうえで、とても美しい歌があります。
『古今和歌集』の花橘
『古今和歌集』巻三・夏歌には、次の歌があります。
五月待つ 花橘の香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする
花橘の香りをかぐと、昔親しくしていた人の袖の香りを思い出す。
そんな歌です。
ここで興味深いのは、
「昔の人」は目の前にはいない
ということです。
姿はありません。
けれど、香りをきっかけに、
その人が記憶の中に立ち現れる。
香りが、
今ここには見えない人を連れてくる。
千年以上前の歌にも、そんな人間の感覚が残されています。
興味深いことに、『精選版 日本国語大辞典』の語誌では、中世には香について「かぐ」と「きく」の両方の言い方が見られることが指摘されています。前の記事で見た「香を聞く」と、今回の「香をかぐ」は、日本語の歴史の中でも接点を持っていたことになります。
現代でも、香道では「香りを嗅ぐ」ではなく、「香を聞く」という表現が使われます。
同じ香りに向き合いながら、
「かぐ」と表現することもあれば、
「きく」と表現することもある。
「かぐ」が、見えない香りの存在を受け取る感覚だとすれば、
「きく」には、その香りに意識を向け、そこから何かを受け取ろうとする姿勢まで重なって見えてきます。
これは両者が同じ語源だという意味ではありません。
けれど、日本語の歴史の中で、香りという目に見えないものに対して、「かぐ」と「きく」という二つの感覚語が交差してきたことは、とても興味深いところです。
香りは、目に見えないけれど確かに存在している
「香り」は目で見ることができません。
しかし、何も存在していないわけではありません。
嗅覚は「化学感覚」
私たちの嗅覚は、空気中を漂う物質が鼻の嗅覚器官に届くことで働きます。
花から。
木から。
土から。
食べ物から。
人から。
目には見えなくても、物質が空気中を移動して、私たちの身体に届いている。
つまり私たちは、
見えないものを、身体で受け取っている
ことになります。
姿より先に、香りが届く
視覚では、基本的に対象の姿を見ます。
けれど嗅覚では、
対象を見るより先に、その存在が届いてくる
ことがあります。
姿が見える前に、
香りによって何かの存在に気づく。
ここに、「かぐ」という感覚の大きな特徴があります。

では、この「かぐ」を音義から眺めると、どのように見えるでしょうか。
ここから先は、やまとことばの音義による読み解きです。
やまとことばの音義から「か・ぐ」をひらく
最初に、区別をしておきます。
ここから紹介する、
「か」=奥深いもの
「く」=組む・括る
という読みは、現代言語学で歴史的語源として認定されているものではありません。
また、
「か+ぐ」という音義から歴史的に「嗅ぐ」という語が成立した、
と証明するものでもありません。
辞書・古典から確認できることと、
音義から読み解くことは分けて考えます。
そのうえで、
「か・ぐ」という響きから、何が見えてくるのか
を考えてみます。
「か」――奥深く、はっきりとは見えないもの
「か」の音義は、
奥深いもの
です。
「か」という音を、
隠れる
風
陰・影
霞む
彼
彼方
などの言葉と重ねていくと、
奥深くて、はっきりしないもの
という音の表す意味やイメージの方向性が見えてきます。
霞がかかれば、その向こうは見えにくくなる。
隠れれば、姿は見えない。
彼方とは、自分から離れた向こう側です。
そして私たちは、
「本当ですか」
「そうですか」
と、言葉の最後にも「か」を使います。
「か」が付くと、確定していたものが問いになります。
まだ、はっきりしていない。
まだ、答えが見えていない。
音義では、そうした言葉を重ねながら、
見えていないもの、奥にあるもの、まだ確定していないもの
という「か」の方向性を読み取ります。
「ぐ」――受け止め、組み、括る
「かぐ」の「ぐ」は、音義では「く」の働きと重ねて読みます。
「く」は、
組む・括る
という方向です。
外から届いてきたものを、
そのまま通過させるのではなく、
受け止める。
自分の中へ取り込む。
ほかの情報と組み合わせる。
そんな働きです。
「か・ぐ」を重ねると何が見えてくるか
では、
か・ぐ
を重ねてみましょう。
「か」は、
まだはっきりとは見えていないもの。
そこへ、
「く」の、
受け止め、組み、括る。
という働きが加わる。
すると、
まだ目では確認できない何かを、しっかりと受け取る
という「かぐ」の姿が現れます。
つまり、
目に見えない香氣を、しっかりと受け入れる
と表すことができるのではないでしょうか。
考えてみれば、嗅覚はまさにそうです。
花が見えなくても、香りは届く。
料理が見えなくても、匂いでわかる。
雨が降る前に、空気の変化を感じることもある。
姿は見えない。
けれど、
何かがそこにある。
それを身体で受け取る。
音義から見る「かぐ」の姿です。

辞書の「かぐ」と、音義の「かぐ」
ここで、最初に確認した辞書の意味へ戻ってみます。
辞書では、「かぐ」には、
においを感じ取る
においから物を知る
隠れたことを探り出す
わかりにくいことを察知する
といった意味の広がりがあります。
これらの意味が音義から生まれたとは証明できませんが、
しかし、両方を並べてみると、
表面にはまだ現れていないものを、手がかりから受け取る
という共通する方向が見えてきます。
「か」――奥深く、まだはっきり見えていないもの。
「く」――受け止め、組み、括る。
この音義の読みと、
日本語として使われてきた「かぐ」の意味が、
どこで響き合うのか。
「ことばをひらく」では、そこを大切にしています。
「かをり」――見えないけれど、そこに居るもの
「かぐ」に関連して、もう一つ印象的な表現があります。
それが、「かをり」です。
「かをり」とは、目に見えないが、そこに居るもの
とも読めます。
つまり、
香りというのは目に見えないが、そこにおるもの。
ということです。
「かをり」と「居る」は歴史的語源ではない
ここも整理しておく必要がありそうです。
歴史的な語形成としては、
「かをり」は「かをる」の連用形が名詞化したものとされています。
したがって、
「かをり」の「をり」は「居る」が語源である
と断定することはできません。
これは、
「をり」と「居る」という響きを重ねた、音義上の読み
です。
そのうえで、
「目に見えないが、そこに居るもの」
と香りを捉えてみると、
とても印象的な世界が見えてきます。
香りは、存在の痕跡を知らせる
部屋へ入った瞬間、
少し前までそこにいた人の香りが残っている。
雨上がりの道に、
濡れた土の匂いがある。
金木犀の姿を見る前に、
その香りで秋を知る。
香りは、
誰かがいたこと。
何かが咲いたこと。
季節が変わったこと。
そうした、
目には見えない存在や変化の痕跡
を私たちに知らせてくれます。

香りは、記憶を連れてくる
もう一度、『古今和歌集』の歌へ戻りましょう。
五月待つ 花橘の 香をかげば昔の人の 袖の香ぞする
花橘をかいだだけで、昔の人が思い出される。
なぜでしょうか。
香りと自伝的記憶
現代の心理学でも、
香りによって過去の記憶が呼び起こされる現象
は研究されています。
においをきっかけとして昔の出来事が突然よみがえる現象は、「プルースト現象」と呼ばれることがあります。
嗅覚によって呼び起こされる自伝的記憶には、
言葉や視覚によって思い出される記憶とは異なる特徴がある可能性が指摘されています。
研究によって結果には違いがあり、
「香りの記憶は必ず他の記憶より強い」
と単純に言い切れるわけではありませんが、
それでも、ある香りが、忘れていた人や場面を突然思い出させることがある
という経験そのものは、現代でも研究対象になっています。
千年以上前の歌人は、
花橘の香りから、
昔の人の袖を思い出しました。
現代の研究者は、
香りによって呼び起こされる記憶を研究しています。
方法も目的も異なります。
けれど両者を並べると、
香りには、
今ここには見えないものを、私たちの内側へ連れてくる
という働きがあることに気づかされます。
自然の香りを「かぐ」
「かぐ」という感覚をひらくとき、意識を向けてみたいのが、自然の中にある淡い香りです。
草木。土。花。木。雨。風。
自然の中には、強く主張するわけではないけれど、注意を向ければ感じ取れる香りがあります。
強い刺激ではなく、微細な変化を感じる
やまとことばの音義から五感を見つめていくと、強い刺激を求めること以上に、小さな変化や気配を受け取れる感覚が大切にされていることに気づきます。
香りも同じです。
強い香りでなければ感じられないのではなく、淡い違いに気づく。
雨上がりの土の匂い。木の香り。季節の花の香り。朝と夕方で変わる空気の匂い。
そうした微細な変化へ意識を向けることは、「かぐ」という感覚をもう一度ひらいていく一つの方法なのかもしれません。
香りをかぐことは、心身にも影響するのか
香りが人の心身へ与える影響についても、多くの研究があります。
香りと身体反応
2020年に公表された系統的レビューでは、におい刺激に対する心拍や皮膚電気活動などの生理反応を扱った27の研究が検討されました。香りを心地よいと感じるかどうかなどによって、生理反応に異なる傾向が見られる一方、香りの提示方法や研究デザインには大きな違いがあり、さらに研究が必要だとされています。
また2025年の研究では、参加者自身が心地よいと感じる香りをかいだ際に、呼吸数や心拍数の低下、心拍変動の増加などが観察されました。
ただし、これらの結果から「この香りをかげば必ずリラックスする」と一般化することはできません。香りの種類や濃度だけでなく、本人の好み、経験、文化的背景なども関わります。
大切なのは、自分の身体がどう受け取っているか
香りをかいだとき、
自分の身体がどう感じているのか。
落ち着くのか。
懐かしくなるのか。
警戒するのか。
何かを思い出すのか。
自分の感覚そのものに気づくこと。
そこに、「かぐ」という行為を見直す意味があるのかもしれません。
私たちは、本当に「かいで」いるだろうか
現代の私たちは、多くの情報を、
目と耳から受け取っています。
スマートフォンを見る。
動画を見る。
文章を読む。
音声を聞く。
会話をする。
では、
今日、自分がどんな香りを感じたか、
思い出せるでしょうか。
朝の空気。
雨。
ご飯の炊ける匂い。
コーヒー。
木。
畳。
本。
人。
草。
土。
季節の花。
香りは、
「ここにいる」と大きな声では主張しません。
輪郭も見せてくれません。
だから、気づかなければ通り過ぎてしまいます。
でも、少し意識を鼻へ向けてみる。
すると、それまで存在していなかったのではなく、
自分が受け取っていなかっただけの世界
が現れてきます。
「かぐ」とは、見えない気配を受け取ること
ここまで、
辞書、古典、音義、現代研究、
それぞれ異なる角度から「かぐ」を見てきました。
「みる」「きく」「かぐ」を並べてみる
「みる」の記事では、音義から、
本質を、動きの中に捉える
と読み解きました。
「きく」では、
世界から届くものを、強く、はっきりと受け取る
という方向を見ました。
そして「かぐ」は、
まだ目には見えないものを、しっかりと受け取る
という感覚として見えてきます。
みる。
姿や変化から、本質を捉える。
きく。
世界から届くものを受け取る。
かぐ。
姿になる前の、見えない気配を受け取る。
これは、人間の認知を科学的に分類したものではありません。
あくまで、
やまとことばの音義から五感を眺めたときに見えてくる、一つの世界の捉え方
です。
見えないものは、存在しないのか
最初の問いへ戻ってみます。
見えないものは、存在しないのでしょうか。
香りは見えません。
けれど、確かにそこにあります。
私たちは香りから、
花の存在を知る。
食べ物を知る。
人の気配を知る。
季節の変化を知る。
ときには、
もうそこにはいない人まで思い出します。
目に見えるものだけが、
世界ではありません。
音。香り。温度。湿り気。風。人の気配。身体の感覚。
私たちは、
見えないものにも囲まれて生きています。
「かぐ」というたった二音の言葉。
音義からは、
「か」――奥深く、まだはっきりとは見えないもの。
「く」――受け止め、組み、括る。
という働きを読み取ります。
それを重ねると、
目に見えないけれど、確かにそこにあるものを、しっかりと受け取る。
そんな「かぐ」の姿が見えてきました。
森へ入ったとき。
雨が降ったとき。
花のそばを通ったとき。
大切な人のそばにいるとき。
ほんの少し、
鼻を「きかせて」みる。
すると、
目では見ることのできなかった世界を
はっきりと受け取ることができるのかもしれません。
このシリーズ「ことばをひらく」について
「ことばをひらく」では、一つのやまとことばを取り上げ、まず辞書や古典から確認できる意味や用例を見つめます。
そのうえで、歴史的な語源とは区別しながら、一音一音をやまとことばの音義から読み解きます。
歴史的に何が確認できるのか。
音義からは何が見えてくるのか。
その二つを混同せず、それでも両方を重ねながら、一つの言葉の奥にある世界を探っていきます。
あわせて読みたい
音義について
本サイトで紹介する音義の読み解きは、林英臣氏から学んだやまとことばの音義体系を基礎としています。辞書・古典から確認できる歴史的な語源とは区別し、一つの読み解きとして紹介しています。
あなた自身の名前も、一音ずつできています。
名前に含まれる最初の一音から、やまとことばの音義に触れてみたい方へ。
参考にした主な資料
辞書・国語資料
『精選版 日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』「嗅ぐ」嗅覚によってにおいを知る基本的な意味と、においのもとや種類を識別する意味、「隠れた事実を探り知る」「わかりにくいことを察知する」という比喩的な意味を参照。
『精選版 日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』「嗅ぎ出す」/『精選版 日本国語大辞典』「嗅ぎ知る」においによって人や物の存在を探り出す意味と、そこから転じて、隠れている物事や事態を探り知る・察知するという意味の広がりを参照。
『古今和歌集』巻三・夏歌・139「五月待つ花橘の香をかげば 昔の人の袖の香ぞする」香りによって、今ここにはいない「昔の人」が想起される古典的な用例として参照。
『精選版 日本国語大辞典』「薫り」「薫る」歴史的仮名遣い「かをり」と、「かをる」の意味・用例を確認。「かをり」が動詞「かをる」の連用形から名詞化したものであることや、「かをる」が古くは香気だけでなく、煙・霧などが漂うことにも用いられたことを参照。
『精選版 日本国語大辞典』『デジタル大辞泉』「か」「彼」疑問・質問などを表す助詞「か」の用法と、古い日本語における遠称の指示代名詞「か」の用法を確認。音義上の「か」の読みとは区別して参照。
→ コトバンク「か」
→ コトバンク「彼」
香りと記憶に関する研究
Larsson, M. & Willander, J. (2009). “Autobiographical odor memory.” Annals of the New York Academy of Sciences, 1170, 318–323.嗅覚によって呼び起こされる自伝的記憶と、視覚・言語によって喚起される記憶との違いについての研究状況を確認するために参照。DOI: 10.1111/j.1749-6632.2009.03934.x
→ PubMed
Hackländer, R. P. M., Janssen, S. M. J. & Bermeitinger, C. (2019). “An in-depth review of the methods, findings, and theories associated with odor-evoked autobiographical memory.” Psychonomic Bulletin & Review, 26(2), 401–429.香りによって自伝的記憶が呼び起こされる、いわゆる「プルースト現象」について、研究方法・知見・理論を整理したレビューとして参照。DOI: 10.3758/s13423-018-1545-3
→ PubMed
Bogenschütz, L., Bermeitinger, C., Brörken, A., Schlüter, H. & Hackländer, R. P. M. (2022). “Odor associated memories are not necessarily highly emotional.” Acta Psychologica, 230, 103767.香りに関連する自伝的記憶が、必ずしも他の感覚に関連する記憶より古く、強く感情的であるとは限らないという研究結果を確認し、香りと記憶の関係を単純化しないために参照。DOI: 10.1016/j.actpsy.2022.103767
→ PubMed
嗅覚・香りと身体反応に関する資料
Loos, H. M., Schreiner, L. & Karacan, B. (2020). “A systematic review of physiological responses to odours with a focus on current methods used in event-related study designs.” International Journal of Psychophysiology, 158, 143–157.DOI: 10.1016/j.ijpsycho.2020.08.014
→ PubMed
Ghibaudo, V. et al. (2025). “Pleasant odors specifically promote a soothing autonomic response and brain-body coupling through respiratory modulation.” Scientific Reports, 15, 36417.DOI: 10.1038/s41598-025-20422-x
→ PubMed


コメント