「みどりの黒髪」は、なぜ緑色ではない?――「み・ど・り」を一音ずつひらく|ことばをひらく
- 山本 幸臣

- 8月28日
- 読了時間: 10分

以前、画像生成AIに、こんなお願いをしてみたことがあります。
「みどりの黒髪の日本女性を描いてください」
すると出来上がったのは――
緑色の髪をした女性でした。
思わず、
「そうなっちゃうよね……」
と笑ってしまいました。

現代の私たちが「みどり」と聞いて、最初に思い浮かべるのは、おそらく「緑色」です。
AIも、私たちが現代で使っている大量の言葉を学習しています。
だから、
「みどりの黒髪」=「greenの黒髪」
と受け取ってしまったとしても、不思議ではありません。
けれど日本語には、
「みどりの黒髪」
という表現があります。
緑色に染めた髪という意味ではありません。
辞書では、
黒く、つやのある美しい髪
と説明されています。
では、黒い髪を、なぜ「みどり」と表現するのでしょう。
そもそも、私たちが知っている「みどり」は、本当に「色」だけを表す言葉なのでしょうか。
一つのやまとことばを、少し奥までひらいてみます。
「みどり」は、もともと色だけを表す言葉ではなかった
現在の「みどり」は、まず色名として理解されます。
けれど『デジタル大辞泉』では、「みどり」は元来、新芽の意味で、そこから色名に転じたといわれると説明されています。
『精選版 日本国語大辞典』にも、「草木の芽・新芽」という意味が記載されています。
つまり「みどり」は、現代の色見本にある「green」だけを指す言葉ではなかったわけです。
色を表す「みどり」はすでに『万葉集』に現れています。巻十・二一七七には、春に芽吹き、夏に緑となり、秋には紅に色づく山を詠んだ歌があります。
したがって、
「新芽という意味が先にあり、ある時点から色名になった」
という説明は辞書にありますが、現存する用例を年代順に並べるだけで、その変化の過程を完全に証明できるわけではありません。
「みどり」は、現代の「緑色」より広い
さらに面白いのは、昔の「みどり」が、現在の「緑色」という一色には収まりきらないことです。
辞書には、
草木の葉のような色だけでなく、
海水のような深い藍色、
そして黒くつややかな色
という意味まで記録されています。後者は、とくに毛髪について用いられました。
色をRGBや色見本で厳密に区切る現代の感覚とは、少し違います。
「何色か」だけでなく、
そのものがどのように見えるのか。
艶があるのか。
みずみずしいのか。
光を含んで見えるのか。
そんな質感まで含めて言葉にしていた可能性が見えてきます。
生まれたばかりの子も「みどりご」
さらに「みどり」から生まれる、不思議な言葉があります。
みどりご。
古くは「みどりこ」といい、生まれたばかりの赤ん坊や、およそ三歳までの幼児を指します。
『万葉集』巻十八・四一二二には「彌騰里児(みどりこ)」という表記があり、乳を求める幼子になぞらえた表現が確認できます。
さらに大宝令では三歳以下を「緑」とする年齢区分があり、大宝二年(702)の戸籍にも「緑児」の表記が残っています。
ただし、
新芽のようにみずみずしい赤ん坊だから「みどりご」と呼んだ
と、その成立理由まで今回確認した資料から断定することはできません。
新芽と幼子には確かに、
若さ、みずみずしさ、これから伸びていく生命
という共通したイメージを感じます。
けれど、それをそのまま歴史的な語源とするのは別の話です。
「みどりの黒髪」には、もう一つ注意が必要
では最初の「みどりの黒髪」はどうでしょう。
「緑の髪」「緑の黒髪」は、辞書では黒くつやのある美しい髪を意味します。日本語の古い例では、『将門記』承徳三年点(1099年)に「緑髪(みどりのかみ)」という訓が確認できます。
ただし、『デジタル大辞泉』では「緑の髪」を、
中国語の「翠髪」「緑髪」を訓読みにした語
と説明しています。中国古典にも「緑髪」を黒くつややかな髪の意味で用いた例があります。
ですから、
日本人が「みどり」という音に生命力を感じたから、「みどりの黒髪」という表現が生まれた
と歴史的事実として説明することはできません。
ここから、
日本語としての「みどり」という響きを、一音ずつ見てみたら何が見えてくるのか。
という、もう一つの問いが始まります。

ここまでが、辞書と古典から確認できること
ここから先は、やまとことばの音義による読み解きです。(→「やまとことば」とは?)
現代言語学で「み・ど・り」という三音の意味がこのように認定されているわけでも、「みどり」という語の歴史的語源を説明するものでもありません。
私が学んできた音義の体系から、一音一音の働きを重ねて「みどり」という言葉を眺めてみます。
「み」――中身を見る、満たし、実らせる
まず、
み。
ゆっくり「みー」と声に出してみると、上下の唇を閉じ、鼻へ響きを通しながら、やさしく外へ音を出します。
「み」の子音 /m/ は、音声学では有声両唇鼻音に分類されます。
私が学んできた音義では、「み」を、
本質・実質・優しさ
を表す音として読みます。
日本語を見ても、
実(み)、身(み)、満ちる、水(みづ)、稔る、診る、看る
などの言葉があります。
「実」は、外側の形ではなく、その中にある中身。
「身」も、そのもの自身。
「満ちる」は、内側が十分な状態になること。
「稔る」は、時間をかけて育ってきたものが実を結ぶことです。
そして「診る」「看る」には、ただ表面を眺めるだけではなく、相手の状態を丁寧に見ようとする働きがあります。
そこから「み」を、
表面ではなく、その内側にある実質を見る。そして、それをやさしく受け止め、満たし、実らせていく。
そんな方向を持つ音として読みます。(→「ま」と「み」は何が違う?)
「ど」――いったん止まり、そこに留める
続いて、
ど。
今回の音義では、「ど」を「と」の濁音として、その基礎にある「と」の働きから考えます。
「と」は、舌先を上の歯茎付近に置き、息をいったん止めてから放つ音です。
つまり発声そのものにも、
いったん止める → そこから放つ
という動きがあります。
音義では、
戸、閉じる、滞る、留まる、止まる、取る
などの言葉を手がかりに、
閉じる・止まる・留まる・区切る
という働きを読みます。
しかし、「止まる」といっても、
ただ動きを失うということではありません。
一度きちんと止まる。
そこに留まる。
区切りをつける。
すると、次にどこへ向かうのかを定めることができます。
たとえば「飛ぶ」という言葉も興味深いものです。
飛び立つ前には、一瞬、足元を定める瞬間があります。
止まることが、次の動きの起点にもなる。
そんな働きを「と」の中に読み取ります。
「ど」はその濁音として、この働きを土台に考えます。
「り」――生命が活発に動く
最後に、
り。
今回の音義資料では、ラ行全体に共通する働きを、
「動く」
と捉えています。
そして、
「ら」は、開き広がりながら動く。
「る」は、閉じてまとまりながら動く。
「れ」は、分かれて伸びていきながら動く。
その中で「り」は、
活発な生命活動として動く
音として整理されています。
イ段には、「命」「生きる」に見られるような生命活動や、前へ働きかけていく方向を読みます。
したがって「り」は、
内側にある生命が、活発に動いている。
そんな響きとして捉えることができます。
三つの音を重ねると、「みどり」はどう見えるか
ここで、
み・ど・り
を重ねます。
「み」は、
そのものの内にある本質・実質。
「ど」は、
そこに留め、定める。
「り」は、
生命として活発に動く。
すると、「みどり」という三音から、
そのものの内にある本質的なものが、そこにしっかりと宿り、生命としていきいきと動いている姿
という読みが見えてきます。
さらに「み」にある、満たす・実らせる・やさしく受け止めるという方向まで含めれば、
内側にある生命が満ち、それがそのものの中に宿り、みずみずしく活動している状態。
そんな表現もできるでしょう。
以前、私はこれを、
みずみずしく艶やかに、生命感にあふれて輝く様子
と表現しました。
今回、一音一音の資料を改めて見直しても、この言い換えはかなり本質を捉えていると思います。
ただし、それは音義から読み解いた「みどり」の姿です。
辞書上の語源説明とは別のものです。
新芽、みどりご、そして黒髪
ここで、もう一度、先ほど確認した日本語の「みどり」に戻ってみます。
新しく芽を出した草木。
生まれて間もない「みどりご」。
黒く、つややかな「みどりの黒髪」。
この三つが、すべて音義によって生まれた言葉だと証明することはできません。
とくに「みどりの髪」には、中国語の「翠髪・緑髪」という背景があります。
それでも、これらを並べて眺めたとき、
若さ。みずみずしさ。艶。満ちていくこと。内側から感じられる生命。
というイメージが浮かんできます。
そしてそれが、
み=内にある実質 ど=そこに留まる り=生命として活発に動く
という音義の読みと、不思議に響き合って見えるのです。
ここに私は、やまとことばを一音ずつひらく面白さを感じています。
史実を音義に合わせるのでも、音義を史実の証明に使うのでもありません。
それぞれ別の方法で言葉を見たとき、重なって見えてくるものは何なのか。
そこを「みる」のです。

AIは、本当に間違えたのか
最初の話に戻ります。
「みどりの黒髪」とお願いしたら、AIが緑色の髪を描いた。
たしかに、言葉の意味としては間違いです。
でも、少し考えてみると、AIだけを笑えない気もします。
私たち自身も、
みどり=green
と覚えたところで、「みどり」という言葉を分かったつもりになってはいないでしょうか。
辞書をひらけば、新芽が出てくる。
古典をひらけば、みどりごが出てくる。
さらに遡れば、黒く艶やかな髪まで「みどり」と呼ばれている。
そして一音一音までひらけば、
み・ど・り
という三つの響きが現れる。
一つの日本語を、本当に分かるとはどういうことでしょう。
意味を一つ知ることなのか。
語源を知ることなのか。
古典での使われ方を知ることなのか。
あるいは、その音に耳を澄ませてみることなのか。
おそらく、そのどれか一つというものではないでしょう。
さまざまな角度から言葉を見つめることで、これまで一色に見えていたものが、少しずつ奥行きを持ち始めます。
「みどり」という、たった三音の言葉。
その奥にも、長い時間を生きてきた日本語の世界が広がっています。
ことばを、ひらく。
それは、昔の日本語を知るだけではなく、
私たちが今、何気なく使っている言葉を、もう一度受け取り直すことなのだと思います。
このシリーズ「ことばをひらく」について
このシリーズでは、一つのやまとことばを取り上げ、まず辞書や古典から確認できる意味と歴史を見つめ、そのうえで、歴史的な語源とは区別しながら、一音一音をやまとことばの音義から読み解きます。
「歴史的に何が確認できるのか」と「音義から何が見えてくるのか」。
その二つを混同せず、それでも両方に耳を澄ませながら、一つの言葉の奥にある世界を探っていきます。


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